エピソード

ある日、テレビを観ていると「直撃!シンソウ坂上SP」という番組で、ZOZO前社長の前澤さんと坂上さんが対談しており、「世の中からお金をなくす」という話をしていた。

「ほう、面白い事を言う人だな」

と、前澤さんの話に私はすこぶる関心を抱いた。

一緒にテレビを見ていた息子はキングコングの西野亮廣の「お金は価値の対価」という考えに感化され、氏の著書を何冊か購入していて私も薦められて一冊読んで見たものの私的には西野という人物はあまり好きではない。

その「お金は価値の対価」という息子が「じゃあ、お父さんにとってお金って何?」と聞かれて、

「う~ん…何も言葉が出てこない。“無”かな」

と少し考えて答えた。そして

「無だけれども、“ありがとう”っていう言葉に変わることもあるかな~」

「また、ある人にとっては自身の欲を満たすためのツールにもなる」

「しかして、その実態はというと…」

「“無”である」

と言った。

お金それ自体には本来、何も価値はないというのが私の主張である。「お金は価値の対価」という西野の主張は、

「アフリカの現地住民に1万円札を差し出して何の価値がある」

と言ってしまえば西野の浅はかな理論は一瞬で砕かれる。「お金は価値の対価」はお金の価値を共有する者同士の中で成り立つ理論である。テレビの対談の中で前澤さんが「世の中からお金が無くなった世界」を坂上さんにイメージさせるのに、

「その辺のコンビニ行ったら全部タダなんですよ」

と言うと坂上さんは、

「どうやって成立する?」

とその原資を問う。「原資は働いている人が生産活動を止めない限りどんどん食品も生まれる」と前澤さんが説明しても「つくっている人の見返りは?」と納得できないでいる坂上さん。「見返りはどこいっても全部タダだから」と言い返されてもいまいち腑に落ちない様子。

自身の欲やお金、生活のために働いている人には報酬という見返りがいる。いわゆる「対価」である。お金を「対価」と思っている人には坂上さんのようにこの話は腑に落ちない。

お金を「対価」と思っている人はお金の価値に捕らわれている人たちで、前澤さんがいうお金の呪縛に縛られている人たちでもある。

詳しくは以下に紹介するリンク先に目を通されると良い。

世の中からお金をなくす」ことで世界は平和になる
世の中からお金をなくす」に対する質問に答えました

最近テレビで、日本の文化に感動してその文化を継承したくて日本にやってくる外国人にスポットをあてた番組が増えてきた。日本は今、世界に誇れる文化を資本主義、生産主義を優先するあまり安易に捨て去ろうとしている。しかし、そういった文化の素晴らしさに魅了された外国人がお金のためではなく、この素晴らしい文化を絶対に絶えさせてはいけないという想いで頑張って継承してくれていたりもする。彼等の心の底にあるもの、それは「使命感」である。何だか大げさな言葉だが、身近な言葉に置き換えるならば「生きがい」と言うところであろう。

「人生の生きがい」である。

お金に縛られて生きている人達は〝お金〟を中心に生活が成り立っている。それは言い換えれば、お金を中心に人生が成り立っているという事でもある。そもそも我が国における教育自体が、〝お金〟を軸にして組みあげられている。露骨な表現に抵抗を感じる人には「経済を中心とした社会を学ぶ為の教育」とでも言えば抵抗なく受け止めて頂けるでしょうか。我が国における教育プログラムは、戦後、「食べるものすら無い貧困の時代」から「国民が豊かな暮らしが出来る社会」を築く為の〝経済〟を中心とした教育システムが構築されています。そして1955年頃から1973年頃まの高度経済成長期を迎えます。

経済は本来、「国民が豊かな暮らしが出来る為」に有るものなのですが、既に高度経済成長を遂げた現在の我が国においては、物は溢れ経済の本来の目的は十分すぎる程に達成されております。そのような絶対的ニーズが満たされている市場にあって更に必要以上に経済をまわしていこうとすると、人間の〝欲〟の方を刺激することになっていきます。経済が全てを専制的に支配してしまっている今日の日本の姿がそれです。

経営コンサルタントの山口周さんと波頭亮さんが語る日本の未来のあり方。

こちらの動画の中で山口周さんは、経済が既にその目的を十分に達成しているにも関わらず、経済合理性を軸とした古い日本の教育システムだけが未だに残骸として残されている現状を指摘し、我が国の教育システムのアップデートの必要性を強く主張されています。その弊害として経済自体があまりにも専制君主的に全てを支配している歪んだ現在の日本の姿があります。

では、

「これからの日本の教育はどのようにあるべきか」

との質問に対し、まず波頭氏は、

「人はこういうけど自分にとってはこれが大事」

といったことを、自信を持って選べることをあげています。これは「精神の自立」にも繋がる話で、現代の親は、必要以上に親が子供に関わり過ぎていて、いつまでも「子離れが出来ないでいる親」が増えて来ている。そういう親の元で育った子供は、大人になっても何一つ自分で決められず、職場においてもマニュアルどうりにしか行動できないといった感じである。精神の自立が出来ている人は、行動を起こすのも早い。〝行動力〟とはそういった精神の自立がベースとして培われているか否かで決まるものである。

経済合理性の枠組みの中で組み上げられた偏差値教育を中心にした既存の教育は、結果としてマニュアル通りにしか動けない社会人を世に沢山おくり出している。これは「考える力の欠落」でもある。教えられたままに行動するのではなく、問題点を見つけ考え行動を起こすといった教育プログラムがあまりにも欠けている。というか問題点に気づけていないというところがまず問題である。

息子が高校を受験した時の話である。受験校まで友達と自転車で地下鉄の駅まで向かい、受験を終えて駅に帰って来たところ、置いたはずの皆の自転車がない。止めてた場所が駐輪場で無かった為、市の役人が皆の自転車を回収しており息子は罰金2000円を払って自転車を返してもらい帰って来たと私に話した。それを聞いて私は速攻で市役所に怒鳴り込みに行った。

「収入の無い未成者から罰金2000円を徴収するとはどういうことだ!」

と。しかし市の役人は、

「市の条例に違反者から罰金2000円を徴収するとあるので、我々は条例に従って任務を遂行したまでです」

といったマニュアルどうりの受け応えで条例がおかしいという事に全く気付かない・・・。

私は「よし分かった」と家に帰って知り合いの市議会議員に電話して事の内容を伝えた。すると議員は、

「申し訳ありません。おっしゃる通り市の条例が間違っております。お恥ずかしい話ですが未成年者に対する配慮が完全に抜けております。そっこく市の議会で条例を改正致します」

と言われ、翌日市役所からお詫びがしたいから役所迄出て来て頂けませんかとの連絡が入った。10年以上誰もこのおかしな条例に気づかず収入の無い未成年者から、罰金2000円を徴収し続けて来たのである。お金の無い子は親に叱られる事を避けて、どこぞからお金をすくねてきたりする事も十分に考えられます。「未成年者の場合、その保護者から罰金を徴収する」が正しいあり方である。これは偏差値教育の弊害の一例で、日本という国には国民が気づけていないだけで至るところに「おかしな事」が転がっております。

言われるがまま、教えられるままではなく、自分の考えを〝意見〟としてきちんと言えること。その為に本当にこれは正しいのか? これでいいのか? と物事を深く掘り下げて考えること。そういった〝真理〟を追究していく人間を育てる教育が、既存の偏差値教育プログラムでは完全に欠落している。その偏差値教育プログラムで勝ち残った者達が安定した高収入を得て「人生の勝ち組」となる。その中心にあるもの、それが〝お金〟であり経済合理性の枠組みの中での「人生の正しい選択」となってしまっている。

しかし、これだけ豊かに成った我が国の世界幸福度ランキングが47位(2023年度)なのは、どうしたことであろう。山口周さんと波頭亮さんの対談動画では、「お金の為に生きる人生」から「生きるに値する人生」へと意識を変えることの重要性を学ぶ事が出来きる。

そんな事を言っている私はと言うと、現在「主婦」・・・いや「主夫」をやっている。

私は元々、物をつくる人間で、こんな物を造ってネットで販売していた。

エアGUNを用いたカスタム・GUNの製作で、それらを私は「カスタム・Bison」と銘打った。私が造りだすカスタム・Bisonは完売したモデルに対して購入を希望するユーザーが後を立たず、個人で製作活動をしていた私は次の新しい作品をつくり出したいのに、過去の作品を再販し続けなけらばならず、「造りたい物がつくれない」という作製ジレンマに陥って物がつくれなくなり、最終的にその道を捨てた。

そういった事があって私は生産性を全く考えづに、「造りたい時に造りたい物をつくる」というスタイルに転じていく事になるのだが、それでは生活が成り立たない。幸いにも妻の理解を得て妻が働きに出て私が主婦行を受け持つ事にし、主婦行をやりながら自分の好きなことに好きなだけ没頭させてもらっている。

ある時はLinuxで自宅サーバーを立ち上げたり、ネットで弾き語りを楽しんだり、タブレットでお絵かきサイトで絵を描くことを楽しんだり、アウトドアでキャンプや車中泊を楽しんだり、我が家のリフォームや車いじりに家族の車の車検整備までもこなしている。

今、私は仕事にはついていないが、家族の者からはとても感謝されている。

そんな私も一時期、お金を儲けたいと思って色々やってみたが、どれもダメで以外にも趣味でやってたカスタム・GUNの制作が収入に結び付いた。そうしてやっと収入の道がみえてきた事業だったが、それも捨てた今の私にお金に対する執着は無い。

前澤さんが言う「お金の呪縛」から解れた自分がいる。

私は仏法にも深く精通しており、「お金は無」という言葉も仏法で説くところの「無我・無自性」といった〝空思想〟に通づるものである。物事には本来、実体も本質も備わっていないと説く教えで、人間が認識する作用によって実体や本質が浮かび上がってくるといった考えであり、それが物事の真理、真実の姿であると説かれている。

お金も本来は実体も本質もない「無」の存在だが、それが人の目に触れることで物体として認識(実体)され、「価値」として認識(本質)されているに過ぎない。そのお金の「価値」があまりにも人間の欲をそそる物なので人々はお金の虜となってしまい、しいては「お金のために生きる」人生となって、苦しみが常につきまとうようなことにもなっている。

物事には本来、実体も本質もないと説く仏法において、人間の存在はどうだろうか?

「人はなぜ生まれてくるのか?」

「自分は何のために生まれてきたのか?」

その答えを導きだしてくれるのが仏法である。人間も本来「無(無我・無自性)」なのだが、縁によってその姿が違って表れてくる。

お金に縁すれば「お金のために生きる人生」として表れ、
子供に縁すれば「家族のために生きる人生」として表れ、
仕事に縁すれば「仕事に生きる人生」となる。

どのような縁と深く関わっていくかによってその人の人生の表れ方が異なってくる。アドラー心理学でも人生には本来、意味は無く自身の人生に自分なりの意味を与えることで人は生きる意味を見出していくものであると説く。

自分は何の為に生まれて来たのか。

自分は何をする為に生まれて来たのか。

その答えを覚り得て生きている人の人生は、目的意識がしっかりとしており苦難や逆境にも強く意味のあるものとなる。そういった人生を生きている人は幸せである。仏法を実践していくとそういった事を自然と覚っていく。

私は20代の時、雑誌に載っていたガンスミス(アメリカのカスタムGUN製作者の名称)のロン・パワー氏の作品、「パワー・カスタム」を観てその美しさ、かっこ良さにやられてしまった。そして、エアGUNを用いたカスタム・GUNの作製にのめり込んでいった。

銃は本来、人殺しの道具としてつくられた物であるが私がつくりだすカスタムは「美」と「かっこ良さ」にこだわり抜いた芸術作品としてつくり上げたGUNである。「人殺しの道具」としての認識ではなく、私は「芸術作品」として銃を捉えて創作を楽しんでいる。そんな私が目指す先にある構想は…

“アメリカの銃規制の実現”である―。

あらゆる物事は現象として生成しているだけであり、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しないというのが仏法で説かれる物事の真実の捉え方でそれを「無我・無自称」という。人が目にする全ての物事は、人の認識機能(五感)によってつくり出されるもので、その認識機能は人によってそれぞれに異なる。

リンゴを「おいしい!」と認識する人もいれば「まずい!」と認識する人もいる。

お金を自身の欲を満たすためのツールと認識している人もいれば、人を助けるためのツールとして認識する人もいる。事物それ自体には本来、意味を持ち合せていない。それに関わる人がそれに自分なりの意味をのせて頭の中に記憶させていくことで概念によって造りだされた世界観が構築されていく。

人殺しの道具として究極のマイナスのイメージで認識されている銃。

仏法で説かれる「無我・無自称」が真実であるならば、その究極の負のイメージをプラスへと転換してみせるというのが今の私のカスタムGUNに込める想いである。その想いは銃を単に「芸術作品」の域でカスタムするといったものではなく、銃による不幸な事件を無くしていくためにもその銃の発祥の地、アメリカにおける銃規制をうったえることにある。

私は本来仏法者なので非暴力主義者で、自身の子供たちや妻にも一度たりとも手をあげたことがない。そんな私が暴力の究極の道具ともいえる銃に魅了されたことを私は不思議に思った。

そして辿り着いた答えがそのカスタム・Bisonをテーマにした小説を書く事。日本の武士道の精神をアメリカの銃社会に注ぎ込む作品、それが小説「Wild-Bison」である。

人殺しの道具として扱われる銃。
しかしその銃自体には「実体も本質もない」。
だとすれば、「扱う人次第で銃であっても平和の武器となりうる」(単に身を守る道具とかの意味ではなく)をテーマにアメリカの銃社会を舞台に、拳銃の所持規制確立を訴える作品。

第一部は物語の「はじまり」でVol.1からVol.4、そしてフィナーレで完結しています。始まりの章なのでまずは「インパクトとかっこ良さ」で読者の心を鷲掴みにすることをテーマとして描きました。

Web小説『Wild-Bison』第一部

 

第二部は舞台を日本に移し、より仏法思想(空の理論)を織り込んで仕上げていこうと考えています。

By アロハー・Bison(仏道名:法介)